格差社会だけど最低限の選択はできる

過ごしやすい季節になりました。
昨日は久しぶりにバスに乗らず駅まで歩き、足が疲れて夜中に脚がつってしまいました。
ほとんど歩かなかった夏だったので脚が弱ってしまって、まるでリハビリのような気持ちになりながらゆっくり歩いたのでした。
北国のほうでは 既に暖房をつけたり コタツを出したり、冬支度をなさっている方もおられるんですよね。
考えてみると 寒い地域に住んでいる家庭は冬の出費が増えるので、出費にも格差があるな、と思ったりします。
世の中は 気楽な貧乏人から、いろんな悩みをかかえてストレスいっぱいの金持ちまで、様々な段階の格差があります。
そんな格差社会で生きている私たちですが、最低限の選択をしながら生きています。
貧乏だけど見栄を張って生きる人や、貧乏をアピールして公的扶助を受けなければ損だという考えの人。
貧困すぎて食べるものがないのにプライド高く痩せ我慢をして餓死する人。
餓死だなんて そんな極端な生き方をしなくてもいいとは思いますが、それはその人が選んだ生き方。
(公的機関が見逃していたり、無視していたりしたものかもしれませんが)
はたまた世の中には 公的扶助を受けていたのに、それを拒否して自分の体を売ってお金を得て自由な暮らしをしたがる知的障害のある女性がいたりします。(もうこれは社会問題)
いろんな人がいすぎて驚きます。
平等になったらいいな、と思いますが、みんな同じに生きられるわけではありません。
公的扶助を受けるためには、ある程度の制約があり、自由でないと感じるかもしれません。
なにかと監視されているような気持ちになることだってあるかも、そして嫌な思いをすることもあるかもしれない。
そう思うと、公的扶助を受けるのにはなかなか踏ん切りはつきません。
(市営住宅に住んだり、家賃補助を受けるということも公的扶助を受けるという意味合いととらえています)
だけど、選択はできます。貧乏だって精一杯生きてやろうじゃないか、という気持ちがあれば、
知恵を絞って節約したり、少しでもネットでお金を稼ぐ、などということもできるようになりました。
(自宅があってパソコンがあって時間があって何でもできる、というのは本当の貧乏じゃないですけどね)
我が家は今後 どれほどの暮らしになるのか、経済観念のない夫がどれだけ変われるか、という楽しみもあります。(楽しみといえるかどうか)
できるところまでは頑張ってみるつもりです。老後の住居は悩みどころです。でも、
市営住宅という安い家賃の住まいで、少し楽な暮らしをするのも、(なかなか入居はできないけれど)
高めの家賃を払って苦しい生活をするのも、自分で選ぶことができるという自由があります。
というか、暮らしっていうのは慣れもあるので、苦しかったものも苦しくはなくなります。
逆に 助けてもらってるのに もっと贅沢したい、まだまだ足りない、と思うほうが心が貧乏臭い気がします。